「花を生ける」というと、難しい技法や流儀を知らなければできないことだと思われるかもしれません。でも、生け花の歴史をひもといていくと、必ずしもそうでないことがわかります。
日本人が花を生けるようになったのは、もともと神様に捧げたり、愛する人のお墓にたむけるという個人的な祈りのためでした。それが6世紀に仏教が伝来し、仏具の中に花入れがあったことから、宗教的な決まり事の中で花が儀式的に用いられるようになったのです。こうして生活の中に根付いた花は、いつしか独立して床の間や掛け軸の前に飾られるようになり、生けた花を鑑賞する文化に発展しました。
生け方には次第に「技」も生まれ、技法を競い合う中で流派が発生していきました。最も古くからある流派は池坊で、そこから新たな流派が枝分かれたのですね。現在名の知れた小原、草月、安達などは戦後に誕生した流派です。それぞれ時代の流れとともに個性を発揮するようになり、花以外の道具を使ったり、大きく彫刻的な前衛作品を生けるようになったものもありました。
そうした中、安達流では植物の個性や生態をいかし、生きているものだけでかたちづくる手法を創始以来貫いてきました。たとえば、下を向いて生えていた枝をわざわざ立てたり逆さまに生けたりはしません。植物の生態・形態に忠実に、自然の命を引き出そうという考えが根本にあり続けているのです。
安達流の始祖である安達潮花は、明治時代に広島県の浄念寺という寺に生まれました。植物や花を生けることが得意で、京都で池坊を習った後、若くして東京に出て「安達式挿花」という流派を新たに起しました。
安達の花の特徴は、「動」的であることです。伝統的な生け方は、中心の枝が高く周囲に短い枝が配され、安定感を持った「静」的なかたちが基本です。一方安達流では一本目を器の外側に生け、二本目は内側に、三本目を少し短くします。そうした枝の先端を結ぶと、中心が低い逆三角形ができあがるのです。このかたちが「動」を表し、生きた植物の美を表現できるのです。
現在30歳という若さで、名高い花芸安達流の二代主宰を勤める安達 育さん。3年前に他界された母、奇才と謳われた初代安達曈子さんからの「人の心に響く花を生けるには、日頃から磨き上げた自分の技や個性を入れ込みながら、花の命を輝かせなければならない」という教えが心にいきているそうです。花の道にいかすべく、農、環境問題、都市問題などを学んだ育さんは、自然の生命力から生まれた日本の美をこれからの世代にも伝えてゆこうとしています。
第1回目は、生け花の歴史的なことから、心を伝える花「花芸安達流」の花の成り立ち、そして初代安達曈子氏が育さんに伝え残した「花の美学」について伺いました。
安達 育(あだち いく)さん
花道家 花芸安達流二代主宰 安達曈子。
1979年、広島県呉市に生まれる。11才の時に、「花芸
安達流」主宰・安達曈子の養女となり、花道の修行に入る。
2002年東京農業大学地域環境学部造園学科卒、同時に全
国41 支部で「育と共に- 花芸フォーラム」を3年間に渡
り開催。
2005年、花芸安達流 副主宰就任、「春の椿」展(ハウスオブ資生堂)40日間の制作参加。2006年、二代主宰 安達曈子襲名。日本花の会理事、山野美容芸術短期大学客
員教授、国立大学法人東京学芸大学非常勤講師、恵泉女子学園大学非常勤講師、日本盲導犬協会評議委員。
著書に安達流の花芸とその技術、理論をまとめた『花- 安達流の花芸』(講談社)、『安達曈子- 作品と生涯』(社団法人花芸安達会)がある。
花芸安達流
〒157-0064 世田谷区給田4-23-11
TEL 03-3305-1311
花手前「あさば-修善寺」
350年の歴史を持つ旅館あさばの野外能舞台で能と花手前の競演「桜と舞と光の幻想」1997
始祖の末の娘が、私の母にあたる初代安達曈子でした。母は「花芸安達流」を創流し、始祖亡き後の安達式挿花を統合した現在の流派主宰となりました。「花芸」とは、日本の伝統的な花道と西欧の芸術意識に学び、両者の長所をいかしたいという母の願いから名付けられたものです。花芸安達流は、多くの人の目の前で花を生ける「花手前」というパフォーマンスを生み出したり、演習カリキュラムを美学的に体系づけるなど画期的な手法で花道を独創的に展開しました。母は一代でこれらを成したのです。
実は、母が花芸安達流を起した背景には、始祖の潮花が考えだした生け花の原点に立ち返ろうという念いがありました。始祖が年を取るにつれ枝に凝りだした様子を目の当たりにし、「花を生けるとは何か」という本質的な疑問に突き当たった母は家を飛び出し、全国の花を訪ねてその特性や植生を実際に見て回る、いわば「花の旅」に出たのです。
安達の花は、とりわけ植物の個性を尊重します。実際に植物が生えている状態を知らなければ、生けられないのです。無口な始祖のもとで育った母は、そのことに気づくのが遅かったという意識があったのかもしれません。そのせいか、私には「植物の生えている姿、枝の表情を心によく留めておきなさい」と、耳にタコができるほどよく言いました。
上:母に手渡された花ばさみ
下:初代 安達曈子愛用のはさみ
偉業を成し遂げ続けた母ですが、自分の作品に納得できたことは生涯一度もなかったそうです。かつて私も「自分の作品に満足したらおしまい」と教えられました。「もっと高みを求める気持ちがなければ次に進めない」「日々それの積み重ねで成長していくものなのよ」とも。同じ植物でも、一度として同じ枝に当たることはありません。その一枝を本当にいかしきれたのか、花の命を本当に輝かせることができたのか…母はそんな心の中の葛藤を他者に見せることなく、いつも毅然と次の作品に向かっていました。
母の後継となるべく私が広島から上京してきたのは、小学5年生の頃です。上京してすぐ、私は母から1本のはさみを授かりました。それまでお花というものを生けたことのない私でしたが、そこから学業を本業としながら週一度の稽古をするという生活が始まったのです。
家では、朝起きて一番にする仕事が家の中のあちこちに生けてある花の手入れでした。私たちは、母と子というよりも師匠と弟子という色合いが強かったように思います。そのせいか母も普段は「こうしなさい」などとあまり私に言いませんでしたが、まだ私が子どもの頃、花より遊びに夢中になっていた時期には「花は生きているものなのだから、きちんと世話をしなさい」と注意されたことがあります。そうした花から始まる日々を重ねていくうちに、生活の中に花があるのは私にとって当たり前になっていきました。
今振り返ると、安達曈子という母が私に教えてくれたことは、花をただの素材としてではなく「命」として見ることだったように思います。
生ける時は、いつも花との真剣勝負で無我夢中です。花の命を最大限に輝かせ、自分の個性も、技もそこに入れ込まなければならないのですから。 今でも、人前で生ける際、緊張しそうな時は母からもらったはさみを使います。子ども用の小ぶりなはさみですが、それが今でも一番手にしっくり馴染み、安心して使うことができるのです。
安心すると同時に、母からのプレッシャーや思い入れも感じてしまいます。花の命を輝かせているのか、人の心に響かせることはできているのか…と。
生前母は、こんなことも私に言いました。
「自分の個性と花の個性がぴたりと一致した時には、どんな小さな花を大きな空間に生けたとしても、花がその空間を制する」。
私は花を生ける時、いつもその言葉を心の片隅に置いています。まだ経験は浅いですが、いつかそんな花を生けたい。そのために自分の個性を磨き、自然の命と向き合い続けたいと思っています。
2009年6月 花芸安達流本部 花室にてインタビュー
掲載 2009年7月
心に咲く花 TOP _ 1. 心を伝える花、花の命を輝かせる生け花を求めて
